常休寺は、禅宗(黄檗)の寺院です。川辺西国第6番・灘25番の観音霊場に指定されています。

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〒664-0029 兵庫県伊丹市中野北2丁目11-5

開基旦那

開基檀那 伊東氏

店内イメージ

常休禅寺創立の発案者であり、最大の功労者でのある伊東氏の先祖について考察する。

常休禅寺では、伊東祐之公の曾祖父第1代位牌の「慈運院前左金吾龍山道天居士」から始まっている。この位牌の裏書きには、次のような記載がある。

「俗名 伊東左近藤原祐貞 豆州(伊豆)の所生也。今川義元・氏真二君に事て、若干の武功有り。時は永禄12年(1569)3月7日遠州(遠江国)掛川城に拒戦して命を捨つ」

(注釈)掛川城は今川氏の最後の拠点となった城で、武田信玄が大軍を率いて南下し、駿府へ攻め入り当主今川氏真は伊豆へ逃げ延びた。後に徳川氏の領有となった。


伊豆の伊東・藤原氏について

伊東氏は伊豆が本国であり、工藤氏から出た藤原氏となっている。

伊東系図は多く見られるが、藤原南家工藤氏族に「工藤祐経-祐時-祐光-祐宗-貞祐-祐持-祐重(号伊東)-祐安・・・・・祐久(明暦年代〜1657・18代)」と見え、との人にも「祐」の字が付いている。

常休禅寺の過去帳にも、祐貞(曾祖父)・祐純(兄)・祐之と「祐」の字が付いていることろから、同族と思われる。

この系統は伊東祐兵の時に豊臣秀吉の九州征伐の先導を務め、その功によって飫肥に封を受け、飫肥藩主初代となり、関ヶ原の合戦には子息祐慶とともに、東軍(徳川方)属して、城地を安堵された。その後、14代祐帰の廃藩置県まで継いできた。

伊東祐之公がこの系統とすれば、曾祖父・祐貞は祐兵と同じ時代に分かれたのではないだろうか。祐之公の書き物の中に藤原鎌足18代子孫とある。祐之公は兄・祐純とともに尼崎藩士であった。小浜(宝塚市)奉行の時に、黄檗山萬福寺開山隠元隆g禅師が慈雲山普門禅寺におられ、禅師の許で禅宗の勉学をした。寛文元年26歳の時、「知足軒正和居士」の法名を賜った。

その後、延宝4年(1676)に慈雲山普門禅寺で黄檗山萬福寺の第3代慧林性機和尚座下菩薩の大戒を受け、天和元年(1681)に黄檗山萬福寺に登り、第2代木庵性滔和尚座下から、再び大戒を受けた。

このように祐之公は信仰心が厚く、中山寺で小堂を建立して石像を安置したり、小浜村の愛宕社に不動多聞の像を鎮座し、知足山(慈雲禅院・現在の小浜小学校の辺りに在ったという)に石地蔵を鎮座した。

そして、天和3年(1683)に石鼎道逸和尚の実開山によって、新田中野村躑躅原の地に法雄山常休禅寺を創立した。

創立以来寺の保護を継承されてきたが、死去する5年前に子孫断絶を予想し、宝永4年(1707)に、「これまで安倉村に買い付けておいた田地分を、祭田として寄進する」という自筆の証文を、常休禅寺第3代雪門元貞和尚に渡している。

正徳2年(1712)9月朔日に逝去した。享年70歳であった。  

妹の不染元志禅尼も、享保3年(1718)9月18日に逝去し、ここに伊東家は断絶した。


阿 部 氏

新田中野村は幕府の直領であったが、のち阿部正次の弟である武蔵国忍藩阿部正吉の子孫の阿部氏に領有された。  

阿部氏が摂津地方を領有したのは、正武の代・貞享3年(1686)とされている。

しかし、中野の素盞嗚神社の拝殿に、忍藩の鳳樓阿正(第8代正識)が、天明5年(1785)に残した額が掲げられている。それには、「摂津国中野の領地、貞享3年丙寅正月21日拝受の時、豊後守正喬稲荷の社を建つ」と記されているので、正式の子正喬の代とも考えられる。

この時、伊丹地域とは、伊丹郷町のうち(大廣寺・下市場・上外崎)・昆陽・新田中野・千僧・寺本・御願塚のうち・南野のうち・野間である。

摂津4郡を領していた期間、陣屋を新田中野に置いていた。陣屋の所在した場所は明確ではないが、村の言い伝えではお稲荷さんの側に在ったとの事。この地は「殿様屋敷」と言われてきた。

文政6年(1823)3月24日、阿部氏が武蔵国忍(埼玉県行田市)から、奥州白河(福島県白河市)に転封された。

常休禅寺は貞享3年から、文政6年までの137年間阿部氏の菩提所となり、毎年祭米40石を賜っていた。

従って、忍藩の藩士達の菩提が執り行われ、その人達の墓石・位牌が残されている。最近になって、元忍藩の子孫が来寺され墓石・位牌を東京に持ち帰られた。


浅 野 氏

今から約370年前、江戸時代の初期に浅野孫左衛門とその義弟の渡辺新右衛門・伊予九左衛門・丸井太郎右衛門・竹山慶雲・大黒屋左兵衛・勝山忠右衛門・大串孫兵衛等が、「昆陽村地内の柴野(荒れ地)を開墾したい」と幕府に願い出て運動した結果、寛永6年(1629)に許可が下りた。

翌寛永7年から孫左衛門か指導者となって、各地から約50世帯、約150人の人々を呼び寄せ、幕府の庇護のもとに開発を開始した。これと平行して、新田に必要な農業用水として、6ケ所の池を築造した。  

お稲荷さんから天王寺川を隔てた反対側の、本通り沿いに在った浅野屋敷、その屋敷の側にあった中野村で一番大きな池(55.867平行メートル 一辺が約230mの半円形)を孫左衛門池と称し、その他の池はそれぞれの申請者の名前をつけていた。これらの池は、昭和30年〜60年頃まで存在していたが、今では区画整理されて、公営住宅や学校の敷地になってしまっている。

昆陽村の北辺に、西は武庫川左岸の小松原から東は昆陽池・瑞ケ池の北側と、東西に細長く広がる広野の開墾を進め、中野を本村として、西野・東野が生まれた。

寛永12年(1635)に初めて検地を受け、105石6斗2升4合と高入れされた。ここに、新田中野村として確立されたのである。

寛永15年にも検地を受け、沢田新田として152石3斗2升8合と野開分として99石9斗2升5合が高入れされた。ともに帳簿には、新田主として浅野孫左衛門の名が記されている。  

孫左衛門は、新田中野村が確立したことを見届けて、寛永17年3月11日、享年52歳で死去した。

孫左衛門の出身地は分かっていない。ただ、広島の浅野家の部屋住みだった人という説があり、「広島の浅野但馬守長晟の次男浅野孫左衛門尉守定」とされている。

貞享3年に代々の一向宗を改宗しているが、広島の浅野家も一向宗である。

浅野家は、2代孫左衛門尉常定・3代孫左衛門尉常道・4代孫左衛門尉治好・5代孫左衛門尉治平と続いたが、治平の死去で断絶する事になる。そこで孫左衛門の弟の八良右衛門の子孫が浅野家を継いでいる。

当村開創第3代孫左衛門尉常道が、天和2年(1682)12月に、常休禅寺開山のために、境内領地の分並びに孫左衛門地の内を加えて寄進している。

その後、貞享3年(1686)3月に、浅野家代々の一向宗を改宗して、常休禅寺の檀那になった。これによって、浅野家と繋がりのある家や、村の開発に参加した家も檀家になった。