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承応3年(1654)に中国から渡日した隠元隆g禅師が、寛文元年(1661)宇治に開山した黄檗山萬福寺の第2代木庵性滔和尚の弟子、慧極道明和尚によって天和3年(1683)に再勧請開山された。
新田中野村は寛永7年(1630)に、浅野孫左衛門等によって開拓が始められ、以来50有余年の間、約50家族の人達によって村としての活動がなされ、村の様子も整ってきた。
延宝5年(1677)に幕府が行った延宝検地では、検地高555石9斗1升7合、田積は122町3反3畝25歩(123.5ヘクタール)となっている。
尼崎藩士で、小浜(宝塚市)奉行の伊東祐之公(藤原鎌足18代子孫)が、寛文元年に慈雲山普門禅寺の隠元隆g禅師について、禅宗の教理を勉学し、「知足軒正和居士」の法名を賜った。
その後、延宝4年(1676)に慈雲山普門禅寺で黄檗山萬福寺の第3代慧林性機和尚座下菩薩の大戒を受け、天和元年(1681)に黄檗山萬福寺に登り、第2代木庵性滔和尚座下から、再び大戒を受けた。
延宝5年に観音経普門品を刺血で書き写すこと28帖。後書きを、萬福寺第3代慧林性機和尚・第5代高泉性敦和尚・第7代悦山道宗和尚が書かれている。
かくの如く、伊東祐之公の信仰心は厚く、中山寺で小堂を建立して石像を安置したり、小浜村の愛宕社に不動多聞の像を鎮座し、知足山(慈雲禅院・現在の小浜小学校の辺りに在ったという)に石地蔵を鎮座した。
そして、新田中野村に寺院を建立しようとして、木庵性滔和尚の弟子石鼎道逸和尚に相談した。石鼎道逸和尚は、天和2年(1682)に師匠の木庵性滔和尚に、寺院開山の勧請をした。すぐに同意が出て、法雄山常休禅寺開山された。
常休禅寺開山が決定した天和2年に、新田中野村開創・浅野孫左衛門の第3代大了道休居士が、常休禅寺境内の分と、他に孫左衛門の地の内を寄進している。
伊東祐之公は、新田中野村躑躅原の地で寺院建設にとりかかり、天和3年(1683)に諸堂が建立され、自らは開基檀那となった。